文責:八百 健吾
書籍「スターティングストレングス」が2019年4月5日に出版され、初回印刷分は発売初日に完売するという好評をいただきました。非常に多くの人がソーシャルメディアで発売のニュースをシェアしてくださったことが最大の後押しになりました。予想以上の反響をいただきビックリしています。ありがとうございます。
出版社の在庫が無くなっていたあいだ、Amazonでは注文がキャンセルされたり、法外な価格で販売されたりしていたようです。私が確認できた範囲では15000円以上の値段がついていました。Amazonとは無関係なのでどういう取り扱いなのかまったく分かりませんが、AthleteBody.jp特別販売ページでは定価でご購入いただき、限定公開のフォーム解説動画がついてくる形になります。現在は在庫に余裕があるのでいつでもご注文いただけます。詳しくはこちらをご覧ください。
今回の日本語版の制作は、最初に出版社から翻訳のご依頼をいただいてから出版に至るまで2年という時間がかかりました。ご依頼をいただいてから契約がまとまり実際に翻訳作業に入るまでの時間、AthleteBody.jpの運営業務と同時進行で行なった翻訳作業の時間、さらに著者Mark Rippetoeの訳質チェックを受けたり、書籍として印刷するためのレイアウトを決めたり、校正を行なったりとさまざまな段階で時間を要しました。
ここに出版に至るまでの経緯を翻訳者の視点でかんたんにご紹介したいと思います。
翻訳プロジェクトの始まり
2017年4月に編集者の方から最初のメールをいただき、スターティングストレングスの日本語版を制作するプロジェクトを進めているということを知りました。
それまでAthleteBody.jpでは基本的に出版社とのお付き合いというのはなかったので、なぜ私に連絡が来たのか少し不思議に思いましたが、アスリートのトレーニング指導をされている河森直紀コーチが「スターティングストレングスの翻訳者には八百が適任」と推薦してくださったということでした。
名著とされるスターティングストレングスの翻訳というのは大きな仕事です。しかし、河森コーチからご推薦いただいたというのは、私にとってもっと大きな意味のあるできごとでした。
職人であること
河森コーチは海外の大学院に留学され博士号を取得されたあと、トレーニング指導者として活動されています。そして、インターネット、書籍、セミナーなどを通じて英語の学術論文やその他の文献から得られる情報をご自身の経験や考察を交じえながら紹介されています。
その活動のはしばしに感じられるのが、「語学力の高さ」と「仕事に対する厳しい姿勢」です。
真剣に取り組むと厳しさを伴うのは、どのような職種にも共通することかもしれません。筋力トレーニングの世界では、個別具体的なことにテーマを絞ると意見や考え方の違いがあったとしても、真摯に仕事に向き合うトレーニング指導者には共通して「職人かたぎ」なところがあると感じます。これは著者のMark Rippetoeにも少なからず当てはまることだろうと思います。そして、河森コーチは私の目に「厳しさの化身」のように映っていました。
私はというと、職業を聞かれると必ず「翻訳者です」と答えます。AthleteBody.jpの運営を行なっていることで、翻訳以外の仕事に関わることも少なくありませんが、自分は何者なのかと言うと「翻訳者」とするのが自分にも周囲にも最も分かりやすいと感じます。そして、自分もまた職人として「良い翻訳」をいつも追求していたいと考えています。
現在、私の仕事は「自分の語学力を使ってフィットネス分野に貢献する」ことがテーマです。しかし、自分の仕事が本当になにか価値を生んでいるのか確証を得るのは非常に難しいものです。厳しい職人の世界で本当に自分にできることはあるのか、自信を持てなくなったり、意義を感じにくくなったりすることもあります。
そこで、ひとつの指針にしていたのが、「トレーニング指導者に迷惑をかけないこと」であり、それを確認する術が「河森コーチのように語学に秀でた専門家から、少なくともお叱りを受けないこと」でした。私が翻訳しAthleteBody.jpに掲載するコンテンツに価値があるのかを最も適切に判断できるのは、他の翻訳者ではなく、高いレベルの専門知識と語学力を持った河森コーチのような専門家だからです。
そんな中で、河森コーチからご推薦いただいたという知らせは私にとって大きな衝撃でした。翻訳者としてスターティングストレングスを訳す技術を持っているのかに大きな不安はありませんでしたが、その技術が価値を生み、なにかに貢献しているのかはずっと不透明だからです。
日本語版の完成時には、私からお願いして河森コーチに序文を書いていただきました。河森コーチはスターティングストレングスを初版から愛読されており、その内容や背景にある著者の考え方を深く理解されています。そして、河森コーチのような職人から日本の読者に紹介してもらえることに意義があるのだと感じます。現在、この序文は河森コーチのサイトで読めるようになっています。
翻訳という職人仕事
スターティングストレングスという本でどういうことが読めるのかは、河森コーチが序文の中でうまくまとめてくださっているので、ここでは翻訳というものに関して少しお話ししてみたいと思います。
最近、インターネット上ではクリックするだけで英語を日本語に置き換えてくれる機能を持ったサービスが増えました。私は姉家族がタイに暮らしているので、タイ語の情報に触れるときには私もよくこういう機能を使います。
ボタンひとつで飲み物が買える自動販売機のようですが、翻訳に馴染みのない人は「日本語版があるか?ないか?」であったり「便利か?不便か?」という感覚で捉えることが多く、「翻訳の質はどうか?」ということを意識する機会は少ないのではないかと思います。
しかし、翻訳された本を読むときに、実際にその本から何をどれだけ得られるかには翻訳の質が大きく影響します。スターティングストレングスは手に取ったその日にすべてを読み切れるほど手軽な内容ではなく、読んで理解するのに時間もエネルギーも必要とします。もちろんお金もかかります。自分がそれだけの時間とお金をかけて読む本がどう翻訳されているのか少し感じ取ってもらえると嬉しいです。
メッセージを届ける
少し唐突ですが、ONE PIECEという海賊をテーマにした少年マンガがあります。長く連載の続く人気マンガなので、読んだことがなかったとしても大多数の人が存在は知っているかと思います。そのONE PIECEの第351話でフランキーという船大工がこんなセリフを言います。
「こっちの岸から向こうの岸まで渡してやろう」
この “約束” をかかえて “船” は生まれる
人を向こう岸へ渡せなくなった船は
船じゃねェんだよ!!!
興味のない人にとっては少年マンガのいちシーンでしかないのですが、私はこの表現がいつも翻訳の果たすべき役割を思い出させてくれるように感じます。
翻訳はふたつの言語のあいだで言葉を置き換える作業です。しかし、表面的な言葉づかいよりもずっと重要なこととして、私は「メッセージを届ける」ということをいつも意識するようにしています。
海の向こうで違う言語を使い、違う文化に生き、目の色まで違う人が考えたことに触れ、「あなたの考えを海の反対側にいる人たちに伝えてきます」と約束し、それを果たすのが翻訳者の仕事だと私は考えています。つまり、単語と単語を正確に対応させることができたとしても、海の向こうの著者が言いたかったことが日本に暮らす日本人に伝わらなければ翻訳は失敗だということです。
英語で書かれた文章と日本人の読者のあいだにはたくさんのギャップがあります。英語と日本語のあいだにある単語の違い、語順の違い、理屈を組み立てる順序の違い、さらに著者と読者のあいだにある知識の違い、文化の違いといったことも関係します。スターティングストレングスでは、著者Mark Rippetoeと日本語版を読んでくれる日本人のあいだにあるギャップをどこまで埋めることができるか頭をひねりました。
具体例をひとつ紹介します。
カタカナ言葉にひそむギャップ
日本語の中にはカタカナ言葉として取り入れられている英単語が数多くあります。そして、そういう言葉はそのままカタカナ表記とする翻訳がよくあります。しかし、カタカナ言葉の中には一般的な日本人にあまり馴染みがないものや、もとの英単語とは違う意味として浸透してしまっているものもあります。
スターティングストレングスでは、「エクササイズ」と「ワークアウト」というカタカナ言葉をできる限り避けました。原著では “Exercise” と “Workout” という言葉が頻出しますが、「エクササイズ」は単独では使用せず、「ファンクショナルエクササイズ」といった他の言葉との組み合わせに限ってごく一部で使用し、「ワークアウト」という言葉は完全に排除しました。
日本語版では、ほとんどの文脈において “Exercise” という言葉は「トレーニング種目」とし、”Workout” という言葉は「1回のトレーニング」や「1日のトレーニング」といった表現にしています。トレーニングを行うのが1日に1回であれば、1回のトレーニングと1日のトレーニングは同じ意味になります。
ここでは “Workout” という言葉について簡単に説明してみます。英語で “Workout” とは複数のトレーニング種目を組み合わせた1回のトレーニング全体を意味します。スターティングストレングスのプログラムでは、例えば以下の内容をまとめて “Workout” と呼ぶということです。
- ウォームアップ
- スクワット 5レップ × 3セット
- プレス 5レップ × 3セット
- デッドリフト 5レップ × 1セット
なぜ「ワークアウト」というカタカナ言葉を避けたかと言うと、日本では「ワークアウト」という言葉が人によって違った伝わり方をするからです。全体的な傾向として、トレーニング指導の専門家や、筋力トレーニングを学問として学んだことのある人は “Workout” という英単語の意味を知っています。しかし、趣味としてジムに通う一般トレーニーの中には「ワークアウト」という言葉を「筋トレのカッコいい呼び方」とぼんやり認識している人が少なからずいます。
言葉は時代や地域によって変化していくものなので、現代のカタカナ言葉特有の使い方があってもいいかもしれません。しかし、スターティングストレングスの翻訳には使えない言葉になります。英語の意味に合わせてワークアウトという言葉を使うと、専門家には伝わっても、一般トレーニーには正確な意味が伝わらない可能性が高くなります。一般トレーニーの感覚に合わせてワークアウトという言葉を使うと、この言葉は厳密な意味を失って「なんとなくカッコいい」というニュアンスしか持たなくなります。
そこで、どういう人が読んでも原著のメッセージを届けられる表現として「1回のトレーニング」を選び、書籍全体を通して統一しています。
翻訳の質と作業効率
原著の “Workout” を「ワークアウト」というカタカナ言葉に置き換えると、一見正確な翻訳のように見えるかもしれません。さらに、こうすると翻訳作業は一気に楽になり、どんどん量をこなせるようになります。そして、翻訳者は「正しく伝わらないのは正しい意味を知らない読者の問題だ」と言ってしまうこともできなくはありません。しかし、私はそれを良い翻訳だとは思いませんし、できる限りそういう翻訳をしたくありません。
世の中には職人が行なった素晴らしい翻訳がある一方で、まったく「メッセージを届ける」ことができていない翻訳もあります。トレーニング関連の書籍も例外ではなく、名著と呼ばれる英語書籍がまったく日本語として機能しないような文章に訳されている場合もあります。日本人が読んで理解できない日本語になっているということです。
翻訳書の制作には権利が必要になります。ひとたび日本語版が出版されると、ひどい翻訳だったとしても他の人が訳し直すことは基本的にできません。翻訳が日本人にメッセージを届けることができていなければ、その書籍から得られたはずの学びが日本に伝わらなくなってしまいます。
英語圏では、バーベルトレーニングに関わる人たちのあいだで「スターティングストレングスにはこう書かれていたが、どう考える?」というような会話がよくあります。こういうやりとりを通じて理解が深まることは少なくありません。スターティングストレングスに書かれていることすべてが絶対的な正解でなかったとしても、学べることは非常に多く、考えるきっかけや話し合う土台を与えてくれるという意味でも価値のある書籍です。バーベルトレーニングに関わる日本人にその学びの機会を届けることが翻訳者として私が果たすべき役割です。
“Workout” を「ワークアウト」と訳さないとすると、他にどういう表現ができるかを考えることになります。いくつも候補を考えてみて、いろんな側面を考え合わせながら最終的な訳語を決めていくのですが、こういう作業を始めると翻訳は非常に難しく時間がかかるようになります。
ボリュームの大きな文章になるほど全体を正確に読みやすく訳すのは難しくなり、時間をかけるほど訳質は向上します。そして、訳質が向上すればするほど、読者は「文章を読むこと」にエネルギーを使わなくて済むようにようになり、「内容を理解すること」にエネルギーを集中できるようになります。
ここでは「ワークアウト」について紹介しましたが、他にも意味の複雑な専門用語の使い方、文の順序、lbsとkgといった数字の換算のしかた、漢字の使い方、読点の使い方に至るまで、どうすれば原著の意味を損なわず日本人に分かりやすい日本語になるかを考え抜きました。
プロジェクトの開始当初、出版社からは「3〜4ヶ月で仕上げられますか?」と打診を受けていました。一般的な感覚であれば妥当なところかもしれません。私は翻訳のみに専念できるわけではなく、AthleteBody.jpの運営と同時進行だったので作業にかかった期間を明確に測ることはできませんが、おそらく2〜3倍の時間を翻訳作業にかけました。
今回は著者Mark Rippetoeのジムでトレーニングをされている日本人の方に原稿をチェックをしていただく機会がありました。これはMark Rippetoeの意向で、ハンパな翻訳であれば出版を許さないという勢いは職人ならではのこだわりでした。その結果「まさにプロの仕事で読みやすく、この翻訳の通りに行えばまちがいなくスターティングストレングスのトレーニング法を実践することができる」という旨の評価をいただきました。
日本語版スターティングストレングス約300ページの翻訳がまったく改善の余地のない完璧なものだとは言えません。残念ながら私もひとりの人間です。ギャップを埋め切れずに読みにくい表現を使っていたり、誤字を残していたりするかもしれません。ただ、ほかの誰かがいちから翻訳しなおすことがあったとしても、書籍全体を通した訳質で負けることはないだろうという手応えを持っています。
そして、その翻訳の質とは、この本を手に取ってくれる読者に「メッセージを届ける」ために考え抜いた結果です。みなさんがスターティングストレングスを読みながらほんの少しでもそういう風に感じられる場面があれば嬉しいです。
謝辞
今回の日本語版スターティングストレングスの制作にあたって、多くの方にお世話になりました。
この仕事に関わるきっかけを作ってくださった河森コーチ、日本語版制作の権利取得や非常に精度の高い校正作業を行なってくださった出版社の編集ご担当のお二方、本当にありがとうございました。
弊社代表のアンディは数年前に “Japan needs this book!” と叫んでいたのを思い出します。今回の翻訳作業は特に時間をかけたので翻訳料を時給に換算すると、おそらく最低賃金を下回るでしょう。時間をかければかけるほど会社にとっては赤字になる状況で、なにも言わず最後まで訳質にこだわらせてくれました。本当にありがとう。今度缶ビールでもごちそうします。
文責:八百 健吾
ご購入を検討中の方へ
AthleteBody.jpを経由してご購入いただいた場合、スターティングストレングスのフォーム解説動画に日本語字幕をつけたものを限定公開しています。AthleteBody.jpには少しだけお小遣いが入るシステムになっています。
ご購入方法と特典動画については以下のリンク先をご参照ください。
八百さん
まだ、途中までしか読めていませんが素晴らしい翻訳ありがとうございます。
ワークアウトのままカタカナ表記だと私は間違って理解していたと思います。
こういった職人気質の仕事に尊敬の念をいだきます。
最後に、素晴らしい本を訳して頂き心より感謝致します。
Takaakiさん、コメントありがとうございます。
>ワークアウトのままカタカナ表記だと私は間違って理解していたと思います。
えらそうな文章を掲載してしまったかなと反省する気持ちでいましたが、参考にしていただけることがあったようで嬉しいです。ありがとうございます。